宇治茶 足利義満の御用達

宇治に移住した上林家は、奈良と京都の中間に位置するこの地が、古来より交通の要衝として機能していたことを見出しました。宇治川は、京都と大阪を結ぶ重要な水路であり、宇治が茶の産地としての基盤を築くための基礎は既に整っていました。元中3年(1386年)頃、北山文化を花開かせた三代将軍足利義満は、宇治の茶園を特別に保護しました。保護された茶園は森、川下、朝日、祝、奥山、宇文字の六園で、後に上林家の琵琶園が加わり、「宇治七茗園」と称されるようになりました。こうして宇治の茶は、室町幕府の公式な茶としての地位を確立し、重んじられるようになったのです。


信長と茶匠・上林家

しかし、室町幕府の衰退に伴い、将軍家と密接な関係にあった宇治の茶師たちは大打撃を受けました。元亀4年(1573年)、室町幕府の最後の将軍である足利義昭は、織田信長軍と宇治の槇島城で戦い敗北しました。結果として、宇治は室町幕府の終焉の地となったのです。

槇島城の戦いの翌年、織田信長は宇治を訪れ、茶の湯を楽しみ、茶摘みや製茶の様子を観察したとされています。

そして天正5年(1577年)、織田信長に反乱を起こした松永久秀の居城である信貴山城を信長が攻めた際、上林久重の長男で初代上林道庵の弟である上林久茂が信長に道案内をしたことから、後に上林家は信長から知行権と白銀を授かり、茶の献進を命じられました。

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