太閤の御茶頭取・上林家の誕生

秀吉、愛用の宇治茶を保護

本能寺の変後、豊臣秀吉が天下統一者となる中、宇治では新興の茶師・上林家が古参の森家を超え、確かな地位を築いていました。『兼見卿記』によると、天正12年(1584年)、吉田兼見が宇治茶の見物に訪れた際、「上林家には焙炉が48あり、茶を誘う者が約500人いた。宇治が最も繁盛している理由がわかった」と記されています。この時期から宇治では、茶樹をわら束や莚で覆い育てる覆下栽培が始まり、丁寧な茶園管理により高品質な茶葉が生産され、宇治茶の名声が全国に広まりました。秀吉も宇治茶を茶会で愛飲し、特権を与えて保護。天正12年には宇治茶を偽る販売を禁じる朱印状を発行し、天正17年には宇治郷の国役・夫役を免除し、宇治茶を積極的に支援していたことが伺えます。

上林家「御茶頭取(おちゃとうどり)」に

秀吉は、特に宇治の有力な「御茶師」である上林家を重宝しました。天正17年(1589年)には、上林家に多くの知行権が授けられ、森家と共に茶師の総頭取として活躍しました。上林家は、質の高い茶を作り、秀吉の期待に応えました。

宇治の上林記念館には、秀吉が上林家に送った書状が今も大事に保管されています。その書状は、上林家が納めた茶葉の茶壺の詰め方が雑だったことに対する叱責の内容です。「届いた茶壺の封が雑で、茶がこぼれていた。言語道断だ。秀吉を軽んじているのか」と厳しく注意し、自負心を戒めています。

しかし、その書状には「上林の茶葉は優れているから」という激励の言葉も含まれています。この一通の書状からは、秀吉が上林家に寄せる深い信頼と、茶への熱心な情熱が伝わってきます。

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